U.一条天皇の勅願寺誕生

 その後の約180年間の歴史に空白部分がありますが、時の一条天皇の皇女が、天台・真言の僧徒の法論に加わり、両宗の僧に対し種々詰問された。天皇は皇女が宝僧を蔑(ないがし)ろにしたとして、皇縁を廃して京を追われ、正暦4年(993)皇女はこの地にたどり着かれた。郷人よりこの話を伝え聞いた国府は、丁重にお仕えするように申しわたした。皇女は深く無常の理をわきまえられ、名を行智尼、草舎を正宝庵と名づけられ、伝教大師自刻の薬師如来に帰依し、仏道修行に励んでおられました。そのころ、近くにあった池で、地域の民人に災いをもたらす出来事が頻繁におきていたことを聞き、行智尼はそれを仏の力で鎮めるための読経をあげたところ、山は崩れ、天も砕け落ちるかと思われるほどの大蛇が現れ、行智尼を呑み込もうとしました。行智尼は驚くことなく、薬師如来にすがり、一心に経を唱えていたところ、ようやく、風も鎮まり、波も定まりて、池の中より多くの小さな蟹に囲まれて、一寸八分の金色に輝く尊像が顕現(けんげん)しました。

 この出来事は一条天皇の耳にも達し、追放したものゝ我が愛する娘が仏門に帰依(きえ)し、仏徳を持って地域の安寧を図っていることを心から喜び、天皇勅願(ちょくがん)の寺院建立の命を下し、長徳2年(996)4月6日、本堂ほかの建立に着手、長徳4年(998)10月に本堂はもとより塔・講堂・諸堂宇が整備され、東美濃一円から信仰を集める寺院として隆盛を極めていくこととなりました。後に、尼が池と呼ばれるようになった池から顕現した尊像を、伝教大師自刻の薬師如来坐像の胎内に納め、人々が安寧な生活が送られるようになり、ますます地域の人々の帰依を受け、「大寺山願興寺」と山号寺名が付けられ、今日に至っています。    Next 続き                                            


小尊像顕現の尼が池跡地


大寺山願興寺の誕生の翌年より
始まった蟹薬師祭礼

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